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コラム

インキの歴史② 産業革命と人工色素

印刷の歴史

インキの工業化

前回コラム『インキの歴史① 印刷インキの発明』では、インキが発明され、印刷業者によって自給自足で製造されていた時代についてご紹介しました。

今回のコラムでは、インキが工業として大規模に製造されるきっかけとなった2つの変革~蒸気機関と人工色素~についてご紹介します。

産業革命と印刷

“The Illustrated Exhibitor: Guide to the Great Exhibition”(1851)より、新聞”The Illustrated London News”を印刷する様子を見物する図, https://www.bl.uk/collection-items/the-illustrated-exhibitor-guide-to-the-great-exhibition

イギリスから始まった産業革命は、蒸気動力によってあらゆる産業を人力から動力に推し進めました。
印刷も例外ではありません。
新聞社であるロンドン・タイムス社は1814年に蒸気動力によるシリンダー印刷機を導入します。
1時間に1100枚という当時としては驚異的なスピードであらゆるニュースを報道し、発行部数を激増させました。

印刷速度の向上とインキ製造技術の進歩

印刷機が進歩したことによって、インキに求められる品質も向上します。
そこで、インキに添加物を加え、よりスピーディーな印刷に耐えられるように改良が加えられました。
それまではニスと煤を練り合わせるだけだったインキに、蝋類・石鹸・グリース・油等を加えることで、インキの「のび」を良くし、裏うつりや擦り落ちを防ぐことができるようになりました。
しかし、当時からインキ製造販売業者は存在していたのですが、品質が安定せず、企業としては成り立っていませんでした。
アメリカでカラーインキが売り出されたのは1830年ごろ。
これは原色のみのラインナップであったためあまり評判はよくありませんでした。
1840年ごろに他のインキ業者によって各色のカラーインキが発売されましたが、品質が悪く使用に耐えうるものではなかったようです。
そのため、まだ印刷業者のほとんどはインキを自給自足していました。

古代からインキには天然無機顔料・天然有機顔料が使われていました。
主な無機顔料は辰砂(朱色)、ラピスラズリ(藍色)など、有機顔料は紅花やイカスミ、コチニールなど。
天然顔料は色味が不安定であり、また貴重な鉱物や動物を原料とするため、これらを原料としたインキの大量生産は難しかったのです。
そのため、インキメーカーが登場し始めたとはいえ、印刷業者は自分が使う分のインキだけを自家製することが主流でした。
この状況を大きく変えたのが、人造色素の発明です。

18歳の大発明 人工色素の発見

ウィリアム・ヘンリー・パーキン(1838–1907)

1856年、ウィリアム・ヘンリー・パーキンはコールタールから「ティアリン・パープル」と呼ばれる紫色の色素を発見し、翌年これを工業化して市販を開始しました。
化学的方法によって色素を抽出すること自体はそれ以前から成功例がありましたが、あくまで他の研究の副産物として実験室内で留め置かれてしまっていました。
「ティアリン・パープル」の市販という画期的なことを行ったパーキンは当時なんと18歳。
これにより、パーキンは『合成染料発見の始祖』と呼ばれるようになりました。
パーキンはその10年後にアリザリンという赤色の色素をコールタールから抽出することにも成功しています。
人工色素の発明により、印刷インキの製造に大きな変革が起こります。
多彩な色をより安価に供給できるようになり、インキ工業は発展しました。

日本とインキ 賃練り屋とは

日本で文明開化により、西洋の印刷技術が導入され始めたのが1870年ごろ。
政府は紙幣や証券、切手などを印刷するために印刷技術やインキの研究に着手しました。
その結果、1871年に証券印刷用のインキを製造することに成功しています。
当時は機械を輸入していなかったため、顔料を粉末にするところから手作業で行っていたようです。
その後、1876年に大蔵省はドイツからミル式印刷インキ製造機械を購入しています。
これが日本での本格的なインキ製造の始まりであるとされます。

一方民間でも印刷業者が現れますが、彼らは輸入インキを使用しており、国産品はまだありませんでした。
高価な輸入インキを購入できない印刷業者は、やはりインキを自分で製造。
ワニスと顔料の粉末を購入し、練り合わせることができなければ、一人前の印刷職人とは言えませんでした。
また、明治時代にはインキの賃練り屋という職業がありました。
これは荷車を引いて印刷工場を訪れて、その場でインキを調合するという商売でした。
この賃練り屋が、日本でのインキメーカーの発祥といえるでしょう。

日本でインキ工業が発展したきっかけは、第一次世界大戦です。
印刷いまむかし近代編③ 昭和・平成の印刷』の「戦争の影響」でも紹介したように、戦争の影響で海外からの印刷関連品の輸入が減少します。
特にインキの原料である人口染料は世界的にドイツ製が主流だったため、第一次世界大戦で対立していた日本では海外製インキ・顔料の輸入はほとんど途絶えてしまいます。
そこで日本政府は民間の染料製造会社を設立させ、補助しました。
これによりインキ原料の国産が本格的にスタートし、日本でのインキ工業発展の始まりとなりました。

インキの現在

1949年ごろに、紫外線照射により硬化するUVインキが開発され、現在の印刷インキの主流になりました。
その後も印刷インキは、より効率的に、より美しく印刷されるために日々進歩しています。

ヤマックス株式会社では、「ないインキは、ゼロからつくります」がモットー。
業界ではめずらしい研究・開発部門を設置し、既存のインキで対応しきれない色や性能は、自社開発や協力メーカーとのタイアップで、お客様のご要望に必ずお応えします。

ヤマックスのインキ開発についてはこちらのコラムもチェック!

次回コラムでは、ヤマックスでのインキ開発をご紹介。
より複雑な色味、より高い品質、そしてこれまでにない印刷表現のためのインキ開発のためのヤマックスの工夫についてお話します。

参考文献

川村茂邦, 『印刷インキ工業史』, 日本印刷工業連合, 1995
東京インキ株式会社50年史編集委員会編, 『東京インキ株式会社50年史』, 東京インキ株式会社, 1975
増尾信之, 『印刷インキ工業史』, 日本印刷インキ工業連合会, 1956

参考サイト

 British Library, “The Illustrated Exhibitor: Guide to the Great Exhibition“, https://www.bl.uk/collection-items/the-illustrated-exhibitor-guide-to-the-great-exhibition
博覧会 近代技術の展示場, “印刷関連機械”, https://www.ndl.go.jp/exposition/s2/8.html

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